まだまだ、おこさまらんち

顔色が悪いだけの人生

一度立ち止まって、「そこに愛はあるのか」と問う

今年、28歳になる。社会に出て7年か、6年か。

 

お父さんやお母さんに比べたらまだまだヒヨッコだけど、曲がりなりにも「社会」で生きてきた。

 

18歳、学生という枠組み、透明の箱から出ようと壁にぶつかりつける私を見つけてくれた人がいた。

 

「きみは将来をどう考えているの」と三軒茶屋の立ち食いフレンチで、"社会"がなにかわからない私の話を聞いてくれた。

 

すごく嬉しかった。

 

それから、私はその人の弟子になった。

 

社会にでたらみんな同じなんだ

 

毎日のように同じ時間を過ごした。

 

師匠の仕事に着いていく、作業している隣に座って「働く」を間近でみる。打ち合わせにも同席させてもらうこともあった、「大人はこうして物事を決めていくのか」と話し合いの価値を肌で感じた。

 

夜の会食も同席した。どう物事が発展していくのか、人と人が重なると大きな可能性が生まれることを知った。

 

「社会にでたらみんな同じなんだ。限られた時間はみんな同じだ」

 

「強者は弱者を馬鹿にするためにいるんじゃない。多くを持つ者は人に分け与えるために存在してると思いなさい」

 

何をやっても怒られる想像しかできない

トータルで3,4年一緒に過ごした。でも、ある時期から師匠と居るのが「しんどい」と思うようになった。

 

ヘマをすれば声を荒げて怒り出す。電話で謝ると「普通だったら来て謝るだろ」と言われ、電車に飛び乗って事務所へ向かった。

 

事務所のインターホンを鳴らしても、出てこない。

 

雨が降ってきて、傘も刺さずに長い時間待つこともあった。

 

何をやってもできない自分、何をやっても怒られる想像しかできなくなった。

 

「あぁ、もう愛されてないんだ。もうダメなんだ」

 

自然と頭に浮かび、私は師匠の元を去った。

 

「愛されてる」が大きなチカラになる

それまでの数年間は毎日楽しかった。

 

「どうして、大人は『わからない』というと馬鹿にするの」なんて、くだらない質問をしても、「それはね…」と丁寧に教えてくれた。

 

怒られても「でも、きみはこういうところが長所だから」と、必ずフォローしてくれた。

 

そういうところ全部で「愛されてる」って思えてた。だから、「はやく社会に出て、恩返しがしたい」、「美味しいごはんをご馳走したい」と思ってた。

 

でも、何かがきっかけで、そういうふうには思えなくなっちゃったんだ。

 

「きみは消耗されて生きるのか」

 

いまでも、師匠には、あの頃と変わらずに感謝している。今こうやって仕事ができて、多くの人が私を気にかけてくれているのは、120%、師匠のおかげだ。

 

あれから3年経って、「しんどいな」と思うと「きみは消耗されて生きるのか」と師匠の言葉が降りてくる。

 

「いいか、人と人は義理で生きてる。不義理なやつは、きみの持っているものを利用しようと近づいてくる。きみは人を喜ばせることがすごく好きだから、気づくとそういうやつ消耗されてしまうと思う。いいか、一度立ち止まれよ」

 

幸せなことに、多くの人に愛されて生きている。それは両親のおかげでもあるし、師匠のおかげでもある。そのおかげで「愛されている」にすごく敏感になった。

 

こんな私だけど、大人になるにつれ近づいてくる人が増えてきた。私が一人でできることなんて、何もないのに。

 

でも、こういうときに迷わず「YES」と「NO」が言えるのは、きっと"あのとき"愛してくれた師匠のおかげだ。

 

だから、私は一度立ち止まって「そこに愛はあるのか」と問うのだ。

 

消耗されるのが大人ならば、私は一生子どもでいい。

 

そんな私でも愛してくれる人がいるんだから。