ポジティブをこじらせて
どうでもいい話ですが、一昨年の3月に保育士を辞めて転職、今年の4月からニートになりました。
1年で会社を辞めました。
理由は色々ありますが、一言で言うと「ポジティブをこじらせたから」です。
雨宮まみさんの「女子をこじらせて」から「こじらせ女子」という言葉が生まれました。
私の場合は「ポジティブ」をこじらせてしまったようです。
いつからかわかりませんが、何が起きてもポジティブに考えるようにしていました。
失敗しても「これが学びになる!」とか、嫌いな人がいても「嫌いな人は私の鏡だから、いいところをみないと」とか。
でも、実際はかなりの根暗なので失敗すると「なんでこんなに私はダメな人間なんだ」とか嫌いな人がいると「嫌いな人は私の鏡だから私も嫌われているんだ」と考えてしまいます。
私はかなり極端な性格なので、12000%のポジティブ思考「やっべー私ゼウス!!」と12000%のネガティブ思考「私なんて水下痢にもなれない」と程よい思考ができないんですよね。
さらにしんどいのはこの落差の激しい思考が常に頭の中でシーソーしていること。
保育士から会社員に転職して数ヶ月、何もできない自分がいました。
でも、ポジティブに「今が学びのとき!」「数ヶ月経てば神がかった技を発揮するんじゃ私は」と考え乗り越えようとしても、「はぁ、またダメだ。なんでこんなポンコツなんだよ」「きっと周りの人みんな私の退職を望んでいる」とブラックな言葉が頭の中を駆け巡るんです。
それから、数ヶ月経っても、私は残念ながら何も成長できていませんでした。
でも、ポジティブな思考は止まってくれません。「大丈夫、大丈夫。まだまだこれからだよ」「みんな同じように壁にぶつかるから、こっから頑張れ!」「なんでもできるさ、やっほい!やっほい!」。
そして、ブラックな思考も止まりません。「会議で口を開けばみんなが嫌な顔するから黙っていないとダメだ」「ほら、どんどん必要無い人間になってる」「給料泥棒だよこんなの」。
気づけば、大きな円形脱毛症がいくつもでき、毎晩22時きっかりに蕁麻疹が出るようになりました。
そして、会社のトイレから出られなくなりました。
今考えれば理由は簡単で、ポジティブな考え方とネガティブな考え方のギャップが大きすぎたせいです。
友人や家族に悩みを打ち明けても「ポジティブに考えないとダメだよ〜」と言われます。
私も今までそうやって人にアドバイスしてきた。
「ポジティブに考えよう」という気持ちが大きくなればなるほど自分への期待も膨らみ、望んでいた結果がでなかったときには奈落の底に落とされる。
その繰り返しが身も心も蝕んでいくことがわかりました。
ポジティブ思考も大事だけど、ポジティブ思考を頑張ることは大事じゃない。
ポジティブ思考を頑張り続けると、くるっと回転してネガティブ思考が強くなる。
「退職してよかったよ」と考えると同時に「ほらやり遂げられなかった。私には無理だったんだ」とブラック思考の比重が上がっているのが現状。
就職しようにも勇気が出せないでいます。
私が会社にいることで迷惑をかけてしまうんじゃないか。
「努力しよう!」という気持ちよりも人に対する恐れしか今はないので、もうすこしおちついたらまた頑張ります。
何が言いたいかって、ポジティブ思考はほどほどに。
マライア・キャリーは「迷い牛」
マライア・キャリーの名曲は「恋人たちのクリスマス」でも「ヒーロー」でもない。
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先日、母が昔の恋人と26年ぶりに再会した。
飛び乗った電車に偶然その人がいたと言う。
私は昔からよくその人について話を聞かされていた。
その度母はこういう「彼の存在が私の人生の大きな基盤。だから、彼無しでは語れない」。
そして、母は「昔の恋人との再会が過去の清算に繋がった」と笑顔をみせてくれた。
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いくえみ綾の漫画「あなたのことはそれほど」に1人の占い師が登場する。
結婚に対して淡い夢を持つ主人公に対して「幸せになりたいのなら2番目に好きな男と結婚しなさい」と語る。
母と同様に、私にだってその人無しには自分の人生を語れないと言える存在がいた。
去年の10月、4年ぶりに私は彼と再会した。
地元の友人が集う飲み会。2人で話す時間はあったけど、まったく清算されなかった。
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彼と出会ったのは14歳のとき。
話しているうちに「親の離婚」、「親の再婚」、「腹違いの兄弟」など、共通するところが多い。
耐えられないほどの孤独感に殺されそうな思春期。
そんなときに一緒に過ごす関係だった。
夜中に電話がくれば家を抜け出し自転車で会いにいく。
彼は恋人が切れることなく色々な女の子と付き合っていた。
買い物にいったり映画を観たり、そんなデートは一度もしたことはない。
手を繋ぐことやセックス、楽しい時間を過ごすのは彼女の仕事だ、私じゃない。
でも、別によかった。
必要なときには私に電話をくれる。私が電話をすれば駆けつけてくれる。
それだけで幸せだった。
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ある日ラジオからマライア・キャリーの「Always Be My Baby」が流れてきた。
"You always part of me.I'm part of you indefinitely"
彼を取り巻く女の子たちが陽ならば、私は陰でいいと思っていたし、孤独を支える人間のほうが重宝される。
「お互いの孤独を埋めあって生きてる」、そんな私の気持ちを底上げしてくれたのはこの箇所だった。
"we were as one,babe.For a moment in time.And it seemed everlasting. that you would always be my babe"
マライアの歌詞だと関係性は終わっているけど、私たちは終わらない。
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恋愛が怖かった。
恋愛は必ず終わりがくるものだから。
「終わりがくるのは困るから、彼氏とか彼女とかそんなもんじゃなくてこのままがいいよ」
マライアはこう歌う"our love will never die"。
このままずっと一緒にいれるんだと、お守りのようにこの歌を聞いた。
もし私がカセットテープでこの曲を聴いていたのなら、とっくに擦り切れてもう聞けないテープが何本も机のうえにあっただろう。
聞けないのに捨てられない。
彼との関係もそうだった。
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今朝、電車で移動中、音楽を聴こうとSpotifyを起動させた。
適当なプレイリストを再生して漫画を読んでいたら聞き慣れたイントロが流れた。
「Always Be My Baby」だった。
「懐かしい。この曲を最後に聴いたのはいつだろう」と記憶を遡ると、彼の顔が頭に浮かび、思い出そうにも思い出せなかった声まで蘇ってきた。
思わず電車の中で「死にてぇ!」と呟いてしまった。
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10月、いつもならスルーするはずの飲み会に参加したのは、彼と再会するためだった。
彼とは別の人と結婚したし、すっきりした気持ちで結婚生活を過ごしたかった。
でも、どうして精算できなかったんだろう。
「Always Be My Baby」を聞きながら、走馬灯のようによぎる思い出に浸りながら、電車のなかで考えてみた。
始まってないものには終わりはない。
ただそれだけだった。
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時間がいくら過ぎてもマライア・キャリーの歌声で”あの頃”に連れ戻されてしまう。
そして、あのときに勇気を出さなかった自分を責める。
きっと私はこのままずっとこういう気持ちでいるのだろう。
でもね、旦那の顔をみれば私の迷子は解かれる。
「そうだ、私は彼だから勇気を出して始めることができたんだ」って。
Mariah Carey - Always Be My Baby
いじめっ子と再会したら感謝したくなったはなし
小学校の3年生から高校までなんやかんやずっといじめの対象になってた。
今思えば、一緒に居づらい子どもだったんだろうなとは思う。
中学から入った女子校ではシカトされたり、くそビッチだのヤリマンだの言われた。
でも、高校に上がるころには向こうのほうがくそビッチだったしヤリマンだった。
大好きだった部活もいじめっ子のせいで辞めざるをえず、中3で退部した。
高校になると別のいじめっ子の標的になった。
仲良くしてくれてるんだと思えば帰り道に
「みんなあんたと一緒にいたいなんてこれっぽっちも思ってないんだから、私に感謝したほうがいいよ」
「そうやってビクビクしてるのとかウザいんだけど」
「○○ちゃん、毎日あんたに付きまとわれてかわいそうだってみんな言ってる」
とほぼ毎日のように駅のホームで反省会があった。
私は勉強がほんとに苦手だったのに、母親の後輩になりたいとう意味不明な気持ちを抑えられず一般入試を選んだ。
そこまで進学校ではないにしろ、7割以上の子たちは指定校推薦で名前が通る女子校に行く。
そんななかで勉強できない私が指定校推薦を蹴って一般入試を選んだことは最高のネタだった。
「え、なに受験すんのwうける」
とにかく学校には行きたくなかった。でも、母親の後輩になることに異様な固執をしていたので、一般入試目指して勉強に励んだ。
結果は惨敗。
滑り止めの滑り止めに通うことが決定し、「大学名を言ったら絶対にまたなんか言われるんだ」と頑なに進学先を言おうとはしなかった。
あれから8年?7年経って、友人が企画した忘年会兼同窓会に行ってきた。
「あの子もくるかな…」と内心ビクビクしながらも「大丈夫、大丈夫、私はクールビューティ」と謎の呪文を唱えながら会場へ向かった。
会場に到着するなり、同級生たちが
「あきちゃん、元気?髪型うけるんだけどw刈り上げやば〜い」と声をかけてくる。
「あはは、ありがとう!」なんて言いながら親友を探す。
親友が私を見つけ手を振ってくれたので、隣に座ると近くにいじめっ子たちが座っていた。
「おい、なんでこんな場所に座るんだてめぇ…」と半ギレすると親友は綺麗な歯茎を見せて私に微笑み返した。
会話をしないのも変なので、ライターの火をかりるために反省会主催者に話しかけてみた。
気づけば2時間経ってた。
いじめっ子たちは全然怖くなかった。
心なしか小さく見えた。
彼女たちが怖くて怖くてちいさくなって、ピエロのように笑わせたり、ご機嫌をとるために必死に漫画を学校へ運んだり…もうそんなことはしなくていいんだ。
もう高校生じゃないのに、なんだかほっとした。
泣きながら帰ったことも、先生に相談したけどなにも変わらなかったときに感じた落胆も、もうそんなことは経験しなくていい。
今はもう肩を並べて楽しくタバコを吸いながらカルピス片手に談笑してる。
今では仕事合間のランチだってするようになった。
気づけばみんな大人になる、いじめっこはいじめている自覚なんてないから、辛い思いをするのはいつだっていじめられっ子だ。
でも、私は彼女たちのおかげでいじめられっ子の気持ちがわかる。
これはきっと何事にも変えられないぐらい貴重なものだ。
そう考えると感謝しかないね。
「もうこわくないよ、ビクビクしなくて大丈夫」
15歳の自分に何か言える機会があるなら、そう言ってあげたい。
寝れない夜に結婚について考えてみた
25歳から26歳になって4時間が経とうとしています。
ちなみに26年前の午前4:00、私はまだ産まれていません。
はい、どーでもいいー
とりあえずステロイドの副作用で頭痛がすごいんだわ。
もう偏頭痛が5日間続いている。
ロキソニンもアスピリンもまったく効いてくれないので、ここ数日睡眠薬を飲んでる。
今夜は睡眠薬を飲み忘れたので痛くて寝れない。
はい、結婚と関係ない〜
25歳の誕生日に長く付き合ってた人からプロポーズな一言をいただき3月に入籍しました。
そのとき「は〜恋愛から解放される〜」と自由を感じたことを強く覚えています。
交際期間中は「私この人といつまでいるんだろ」「こいつ私とどうなりたいんだろ」なんてことをよく考えてました。
とはいえ「結婚したい」とはあんまり思ってなかった。
私の母は私の父親と離婚して、バツイチ同士で再婚しています。
だから、「結婚して離婚すんのってめんどいんだな」とか「てか、結婚って何回してもいいのか」とか、結婚に対してあまり「夢」がなかったんすよ。
だから「結婚しよう」と言われたときに「離婚届も一緒に書こう」と提案しました。
彼も「そうだな、2枚書いてお互い持ってよう」と快諾してくれた。
周りの友達を見ていると、相手に対する条件が多かったり、結婚に夢を持ってていいなぁーと思います。
相手に条件を求めるということは、「自分も同じだけ求められていい」と私は理解するのでその懐のでかさと、「結婚」に夢を持てるように育った環境が羨ましいと思う。
先日そんなことを考えていたら、スプツニ子さんの結婚生活についてのインタビューをTOFUFUで発見しました。
そこでスプツニ子さんが「寿命あるのに永遠の愛なんて誓えない」と話していて「ほんまやで」と思った。
愛なんてよくわからないものを結婚前に誓えるってすごい。
誓ったから愛し続けないといけないなんて足枷じゃない。
私には耐えられないんだ、そういうの。
よく「なんで若くして結婚したの」と聞かれますが
・同棲解消がめんどくさかった
・「恋愛ってめんどくさい」そこから逃げたかったから
・世界で1番綺麗な鼻を手放したくなかった
こんなもん、愛とか恋とかそんな「ふわふわ」したもんじゃなくて業務遂行のための過程という感じです。
ありがたいことに彼は世界で1番綺麗な鼻を持っています。
私が彼と一緒にいる理由はたった1つ。
「世界で1番綺麗な鼻を独り占めしたい」
ほんとにこれだけ。
結婚ってそんなもんだと思うよ。
とてもどうでもいい話なのですが、4才児7人に完敗しました。
前々回にアップしたブログにどれだけ教え子のことを愛していたかを書きました。
21歳の私と7人の0歳児、別れるときには25歳と3歳児になっていました。
大人にとっての3年間はあっという間の時間だけど、0歳児にとっては人生で一番頑張る時間です。
寝たきりの状態から歩くようになり、自分の気持ちを伝える手段が泣くことだけだったのに、言葉や体を使って自分の気持ちを表現するようになります。
21歳の私は3年経っても大した変化は無く、しいていうなら実家を出て同棲をはじめたぐらいです。
そんなことを考えていた最終出勤日。私は「次会うときにまでに、彼らに負けないぐらい私も成長しよう」と心に決めました。
それから、慣れない仕事に食らいつきハゲました。でっかい円形脱毛症ができたんです。
そして今日は運動会、子どもたちとの勝負の日です。
「こっちはハゲるまでやったぞ、成長の実感はないけどな!」と風を切って会場へ向かい、「お前らの成長を見せてみろ」と偉そうに最前列に着席しました。
お遊戯の曲がかかり、子どもたちの入場がはじまった瞬間、一番うしろの席に移動しました。
だって涙が止まらなかった。
最前列にドヤ顔で座っていたのに泣き出した自分が恥ずかしかった。
あーこんなに大きくなるんだ。
去年は整列も自分たちでできなかったのに、今は笛の合図で動けるんだ。
去年は立ち尽くしてたのに、笑顔で堂々と踊れるんだ。
顔が崩れてそばにいた保護者に「ちょっと、泣きすぎじゃない!」とティッシュを手渡されるほど感動して泣いてしまった。
お遊戯が終わって子どもたちに逢いに行くと
「おどってるときに、あきちゃんのこと見つけたんだよ〜」
「お仕事お休みしたの?ありがとう!」
「上手にできたでしょ〜とっても楽しかったよ」
と笑顔で話す彼らに頭が下がる思いだった。
これは完敗。
同じ土俵にすら立ててない自分に気づいたと同時にこの子たちの担任ができて本当によかったなと痛感しました。
泣きじゃくる私をみた1人の保護者が「あきちゃんが3年間しっかり愛してくれたおかげだよ〜」なんて言ってくれたのにさらに涙してしまった。
今回は完敗だったけど、いつか「あきちゃんすげぇ」と言わせてやるんだ。
だって、彼らを育てたのは私だし、私のほうが大人だし、人生経験豊富だし。
とにかく負けるわけにはいかない。
今にみてろよ!!
先生、きみたちを捨てたわけじゃないんだ。
22歳になる年に保育士になった。
3月31日まで大学生だったのに4月1日になったとたん「先生」と呼ばれる。
不安で胸が張り裂けそうだった出勤初日の朝、目の前にいたのは母と離れ泣き叫ぶ7人の0歳児。
何言ってんのかわかんないし、お腹空いてるのかと思って何か食べさせれば怒る。持たせた野菜スティックをぶん投げ、私によだれと鼻水と涙をぶちまけてくる。
意思疎通が上手く行かず、「なんでわかってくれないわけ!!」と泣き叫ぶ赤ちゃんと一緒に泣いたこともあった。
そんな彼らと3年間一緒に過ごした。
ただ泣き叫んでいただけの赤ちゃんが、ハイハイして、私の名前を呼び、気づけば歩いて走り出す。
昨日できなかったことが今日にできるようになり、その喜びを言葉で伝えてくれるようになった。
彼らは私の全てだった。
心のそこから愛してたし、食べちゃいたくなるぐらいかわいかった。
金曜日の夜は「あの子たちは土日なにするのかな」と考え、日曜の夜は「あー明日やっと会える!」と月曜日への期待を胸に寝てた。
私が働いていた保育園は保育園と幼稚園で分かれている。
3歳になって4月を迎えたら、幼稚園に進学する。彼らとのお別れが待っている。
彼らのいない生活は想像できなかった、毎日一緒に遊んで、楽しいことを共有して、悲しいことも共有した。
そんな彼らを送り出すのが辛かった。
だから、保育士を辞めることを決めた。
転職が決まった10月、のこり数ヶ月この子たちにありったけの愛情を注ごうと決意し、一日一日を無駄にしないように過ごした。
3月になり私の退職が発表されたとき、保護者の方から「なんで?」「6歳の卒園まで見届けてくださいよ」「ずっと一緒にいてくれるんじゃないんですか」と質問攻めにあった。
へらへらしながら「ニートになります〜」なんて返してた。
ある日、私の退職を知った子どもが私にこういった。
「先生、どこかへ行っちゃうんでしょ?なんで、もう一緒に遊ぶのやなの?」
「いい子にするよ。なんでもう怒らせないよ。ずっと一緒でしょ?」
「もう僕たちのこといらないの?きらいなの?」
3歳児の口から出た思わぬ言葉に絶句した。
思わず黙りこんでしまった私を見てポロポロと涙する子ども。気づけば私の目から涙が溢れていた。
結局、いい言葉が見つからず抱き合ってお互いの涙を拭いた。
3月31日、子どもと一緒にいられる最後の日。みんなの大好きな歌を歌い、思い出の公園でいっぱい遊び、楽しく過ごした。
勤務時間が終わる間際、お母さんたちと子どもたち全員が集まってくれた。寄せ書きをもらい幸せだった。
涙をこらえ笑顔でわかれ、園に一礼して家に帰った。
家に帰り、もらった寄せ書きに目を通す。
私に「もう僕たちのこといらないの?きらいなの?」と聞いてきた子のお母さんからのメッセージ
「先生の退職を子どもに伝えたとき、先生が僕を捨てるんだと泣き崩れました。
翌日の朝、先生にずっと一緒にいてほしいことを伝えると保育園に行きました。
帰宅後、先生にお話しできたのか聞いてみると『あきちゃん、涙で「大好きだよ」って言ってくれたよ』と笑顔でおしえてくれましたよ!」
顔がゆがんで妖怪みたいになるまで泣いた。
本当にいい仕事だなって、保育士って最高に幸せな仕事だなって思えた。
彼らと離れて3ヶ月経った、毎日寝る前には写真やムービーを見て、土日は運動会のDVDを見てる。
思い出に浸るたび「保育士に戻りたい」と思う。でも、戻らない。
だって、他の子どもたちを彼らのように心から可愛がって愛してあげることはできない。
退職する日、1人の女の子が私に「大きくなったらまた遊ぼう」って言ってくれた。
最後にあったときは腰ぐらいの身長だったけど、毎日大きくなってるんだろうな。
大きくなればなるほど、私との思い出は薄まっていく。彼らの人生はまだ始まったばかり、これからいろんなことを頭に入れていく。
「先生は僕を捨てる」なんて言うけれどそれはこっちのセリフで、きみたちは私との思い出を捨てて大きくなる。
自分がどんどん過去の存在になっていく切なさを写真のなかにいる彼らの笑顔をみて感じる。
私との思い出をどんどん捨てて、大きく大きく逞しく育ってほしい。
私はきみたち一人一人がはじめて見せてくれた笑顔、はじめて喋った言葉、そして、はじめて自分で歩いた一歩を忘れないから。